2012年9月7日金曜日

深イイ話し その⑤

全国大会を支える人たち 1
突然ですが、金子みすずさんと井上ひさしさんのこと。

 さて、福井大会をあと僅かに控え、関係者一同おお騒動の中を、ただただ後ろ髪を引かれる思いでこの間三冊の本を一気に読んだ。井上ひさしさんの一冊、金子みすずさんの二冊でした。
 何を偉そうに、いやそれでもふとその遠いお二人の願った共通性を見たたようさえ思ってニンマリしているのです。

「積もった雪」   詩:金子みすず

上の雪 
さむかろな。
つめたい月がさしてゐて。

下の雪 
重かろな。
何百人ものせてゐて。

中の雪 
さみしかろな。
空も地面もみえないで。

 金子みすず記念館初代館長の矢崎節夫さんは、1903年に生まれ今から82年前1930年に僅か26歳で亡くなって以来、ずっと埋もれていた(1984年にようやく全集発刊される)みすずさんのその作品に触れ「今日、日本人が初めて手に入れた幼な子から百歳の人まで、三世代が共有できる文学と言っていい。」とその優しい言葉から受けとめる人生観、宇宙観、宗教観につながる深さ、広がりを伝えます。
 一方、井上ひさしさんは、20104月に亡くなる三年前のあるテレビ番組で、「大切なのは、自分が使いこなせる言葉でものを考えることが大切。」と語りました。正に両者はおよそ100年をも超える時を超えて「自分にしかないその優しい言葉」で人はいつも在りたいと解くのです。
 
「私と小鳥と鈴と」   詩:金子みすず
  
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を早くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
 ふたつめは、みすずさんの作品には沢山の魚や鳥、草花や蜂、星や雪や土、動物たちが出てきます。そして魚なら自身が魚に、雪なら自身が雪に、蜂なら自身があくまで蜂のままにいて、その上で自身(社会)の在り様を客観的に「二つの眼」で見ようとしています。
 
 井上ひさしさんは、「生きていく そのままの中に、苦しみや悲しみは全部詰まっているけれど、笑いは入っていない。「笑い」とは、人間が創るしかないもの、それは、一人ではできない。人と関わって、お互いに共有しないと意味がないもの」と。
 またここでもおよそ100年をも超える時を超えて、「ふたつの眼」で客観的に自身を、人と社会との関わりを説きます。
 「星とたんぽぽ」   詩:金子みすず

  青いお空のそこふかく、
  海の小石のそのように、
  夜がくるまでしずんでる、
  昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
 最後に、金子みすずさんは今から109年前に生まれ、実際には13歳頃から作品を発表したとされていますが、500を超える残された作品そのひとつ一つの詩、歌(童謡)。
 晩年「100年後の皆さんへ、僕からのメッセージ」と題して綴られた井上ひさしさんの、100年後の皆さんお元気ですか?で始まる手紙。

 「地球の上で暮らしている人間が駄目になってはいないでしょうか?僕たちの世代は、それなりに一所懸命頑張ってきたつもりですし、これからも頑張るつもりですが、できたら100年後の皆さんに、とてもいい地球をお渡しできるように、100年前の我々も必死で頑張ります。どうぞお幸せに。」
 およそ100年をも超える時を超えて、やはり二人はなんと誠実で優しい言葉と決意にも似た想いをを私たちに残し託されたのでしょう。
 (いつも私たちの運動はそんなんでありたいな)

 少し前ある人から「あなたの文章は長い」と指摘されたばかりだか、それどころか今回は福井大会に直接関係ないような「深イイ話し5」になってしまったようです・・・。
 ただ、金子みすずさんと井上ひさしさんから、今、ここ福井で私たちや未来を担う若者たちが大切にされ一緒におおらかに全国の参加者の皆様につなげていける優しい福井大会を創りたいとより思い願うのです。
どうか「よぉし、それなら!」と、今一度ご参加の検討を是非!

きょうされん理事 福井支部 具谷 裕司

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